経済人

経済やウェブやゲームなど、気になることを書いていくつもりです。

「死にたい」と思っている人に私が言えること

おそらく、「死にたい」という言葉や、それに近い言葉を検索ワードでここに来てくれた方が大半だと思うので、そのつもりで話そうと思う。

「死ぬな」と言いたいわけでもないし、「死ね」と言いたいわけでもない。何らかの行動を思いとどまるように、説得したいわけでもない。

ただ、だらだらと私が考えていることを話していくだけの、要領を得ない取り留めのない文章だ。
それでも、せっかくこうやってここに来てくれたのだから、これも何かの縁だと思って、私の文章を読んでみて欲しい。

とても長い文章になってしまったので、一応要点だけを目次として並べておく。

目次
  • 部屋に火のついたマッチをばら撒いた話
  • まず「損得」で考える
  • それが駄目なら「死に方」を考える
  • それが駄目なら「時間の作用」を考える
  • それが駄目なら「自分を死に追いやる社会」について考える
  • 私が「我慢ならない」こと
  • 「死にたい」情況を打破するための具体的なテクニック

もし気になったのであれば、読んでみて欲しい。

私は「死にたい」と思って火のついたマッチを家の中にばら撒いたことがある

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北方謙三という作家がいて、そのエッセイに書いてあったことなのだが、彼は何か大きな悩みがあって、自ら電柱に思いっきり頭をぶつけ、額からだらだら血を流したそうだ。
ただ、頭から血を流したことは覚えているけど、何について悩んでいたのかは忘れてしまったそうだ。「若い頃の悩みなんてもんはみんなその程度のものだ、ガハハ」という主張をするために、北方謙三はそのエピソードを語った。

試みの地平線 伝説復活編 (講談社文庫)

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若い頃……というわけでもなく、30代の差し掛かろうとしていた時期なのだけど、私にも似たような経験がある。

当時、私は必至に働いていた。今は人を不当に働かせて心身をズタボロにする「ブラック企業」という言葉が流行しているが、当時はまだその言葉がなかった。
私の会社は、給料は悪くないし出世のメリットもあるので、ブラックと言えるかはわからないが、労働の実態は紛れもなくブラックだった。
3時間から4時間半程度の睡眠時間が続き、日頃から大きなプレッシャーがかけられ、おまけにその仕事にプライドが持てなかった。たぶん、労働の待遇よりも、無駄で不当なことに従事しているという意識のほうがつらかった。当時は、どうせ激務なら国家試験を受けて官僚になればよかったと後悔し始めていた。私は日々働く中で、少しずつ追い詰められていった。

あるとき、何かどうしようもなく嫌なことがあって、それが次の日とか次の次の日とかに控えていた。
私は煙草を呑んでいて、ライターが点かなくなったことがきっかけだと思うが、マッチ箱を見つけた。たぶん温泉旅行に行ったときに貰ってきたものだ。(そういうところの詳細は覚えている。)

私は、ぼんやりと、そのマッチ棒を幾つかまとめて持ち、刷って火をつけ、無造作に自分の部屋のカーペットやフローリングの床にぶちまけた。それからマッチを撒いた部屋から出て、廊下で煙草を一本吸い終わるまで何もしなかった。いっそのこと火事になってしまえと思っていた。

どういう精神状態で、このような愚かしいことをやってしまったのか……。
自殺の方法としては最悪だ。首吊りや飛び降り、リストカット、硫化水素など、もっと簡単で楽で安全に死ねる方法がいくらでもある。
詳しいことは知らないが、考えるまでもなく焼身自殺は非常に苦しいし、もっとも愚かなのは、アパートに火をつければ他に住民に間違いなく多大な危害が及ぶということだ。しかし、私はそのようなことも考えられなかった。ほとんど意識が酩酊していた。
最悪、結局火がついた後にその場所に留まることができず、怖くなって部屋から逃れ、自分のもたらした火事によって他の住民の命を奪う……という結果すらあり得た。

とても幸いなことに、存外マッチの火の勢いというのは弱いもので、フローリングとカーペットに焦げ跡が残っただけだった。
そして、正常な気分になったとき、部屋の焦げ跡を見てゾッとすることもあった。

そして現在、それをやった時から10年以上経っている。
私は、そのような心境になったときの記憶があるし、そのとき辛かったことも覚えている。しかし、何について悩んでいて死のうと思っていたのかを思い出すことができないのだ

もちろん、仕事をしてきわけで、多分この関連のことだろうな……という候補はいくつかある。しかしそれも、実際その場所から距離をとって眺めてみると、ものすごくくだらない些細なことだった。
後から振り返ってみれば、バカみたいにつまらないことでも、逃げられない追い詰められた情況だったら、人は死ぬことを考えてしまうのだ。

今の悩みなんて、数ヶ月後、数十年後からするとまったく大したものじゃないから気にするな……ということを言いたいわけではない。ただ、自分の事例としては、そういうことがあった。

もちろん「逃げられない情況」は、様々なところからやってくる。
外側からそういう情況に追い込まれる場合もあれば、自分の中に自分で埋め込んだ価値観のせいで身動きがとれなくなってしまうこともある。
「◯◯すればいい」という汎用的な解決の手段は存在しない。

だが、答えが存在しないなりにも、「死にたい」と思ってしまうときにどうすればいいのか、私の文章を書いていきたい。

「死」と「損得」の話

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死にたいと思ってしまったときに、「損得」を考えることで、そういう感情を脱することができる人も、中にはいるかもしれない。

例えばの話だが、打ちひしがれて「死にたい」と思ってしまうあなたは、ナイフや薬剤を手にして、自分ではなく誰かの人生を傷つけたり終わらせたりすることができる。相手の社会的地位や経済力が自分よりずっと高くても、わりと簡単に。
一方であなたは、同じく「死にたい」と言ってしまう人ようなに寄り添って誰かを救うことができる。手間をかけなければ救えない人達……逆に言えば手間をかけさえすれば救えるような人達がいる。現代の社会で、世界を救うヒーローにはなれなくても、目の前にいる人達を順番に助けていくくらいの「人助け」は、やろうと思えば誰だってできる。

これは精神論などではなく、あくまで物理的・原理的な話だ。トンカチで殴れば人は死ぬし、金さえ恵めば不幸から逃れられる人は、先進国の日本にすら大勢いる。
人は、自分が思ってるよりもずっと多くの「可能性」を持っているものなのだ。しかし、その「可能性」に大勢が気づくと危険だから、社会というものは全力でそれを隠蔽しようとする……人々の意識にのぼらないように抑え込む。

「死にたい」と思っている人、あるいは死のうと思っている人への説得として、「損得」に働きかけるアプローチはあり得る。
「あなたは色んな可能性を持っているのだから……あなたには幸せになれる力があるのだから……」ここで死んでしまうのは「勿体無い」ということだ。
これには、一定の説得力はあると思える。

しかし、「損得」のアプローチには、多くの危険なものが潜んでいる。
その一つの例として、損得で考えた場合、マイナス(苦しみ)を重ね続けるよりも、死んでゼロにしてしまったほうが楽な人生というのは、普通にあり得るだろう。

また、「損得」の理屈の延長には、「どうせなら誰か気に入らないやつを殺してから死ねばいいんじゃないの」とか「持ってる金を全部NPO団体に寄付してから死のうよ」……みたいな唾棄すべき考え方すら生まれてしまう。
実際に、どうせ自殺してしまうのなら富裕層へのテロでも起こしてから死んだらどうか、みたいなことを冗談交じりに言う人がいる。私はそのような考え方を全力で嫌う。
個人の人生は「損得」で測れるものでもないし、「どうせなら……」という言葉で誰かに規定されるものではない。
自殺をしようと殺人をしようと、自分の幸福を追求しようと他人の幸福のために生きようと、それぞれのかけがえのない人生を持ったそれぞれの人間の決断がある。

人は、そんなに簡単に生きているわけではない。「死にたい」と追い詰められている人が、損得を考えることで立ち直れるケースは稀かもしれない。
そもそも、「得」に釣られて生きているような人、人類は経済的に豊かになっていくからみんな幸せになれるみたいな思想を持っている人は、あまり思い悩むということがないかもしれない。

「損得」がまったく心に響かない人は、それならばいっそのこと「死に方」というものを考えてみたらどうかと思う。
「死んだらゼロだから終わりでしょ?」ではない考え方を。

「死に方」を考える

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これは40を過ぎたおじさんの古臭い戯言ととってもらって構わないが、人は信念を持って生きて、死ぬべきだと考えている。

このご時世、「良い生き方」「幸せな人生」「幸福」を論じる輩は数多くいるが、「死に方」を論じる人間は少ない。
もっと殺伐とした時代……策謀が渦巻き、暗殺や裏切りが当たり前だった時代、人々はみな「どのように死ぬか」ということを考えていたのだ。

「切腹」という言葉を知らない日本人はいないだろうが、自分の腹に刃を突き立てて横にずらす、という行為には想像してみることさえ憚ってしまう凄まじさがある。

このようなことが当たり前に行われていた時代もある。
私が最も好きな日本の作家は「三島由紀夫」である。

三島由紀夫 100の言葉

三島由紀夫 100の言葉


1970年、三島は切腹して死んだ。
彼の死に様にはある種の滑稽さがあり、嘲笑を持って彼の死を捉える人もいる。
しかし、私は現代において、切腹のようなことを実行できてしまう信念の凄まじさに敬服せざるを得ない。


「混ぜるな危険」の洗剤を混ぜるやり方……「硫化水素」を発生させて自殺すると、すぐに気を失って楽に死ねる、という情報が今はネットなどにも出回っている。しかしあえて、ここで忘れ去られてしまった疑問を思い起こして見るのも良いかもしれない。
直截に言ってしまうと「いくら楽だからと言って、便所の洗剤で死んで恥ずかしくないの?」ということだ。

美しく死ぬのは難しい。もっとも穏便で美しい死に方は睡眠薬自殺か凍死だと思うが、人は追い詰められると、首吊りや飛び降りや、急行電車に突っ込むということをやってしまいがちなのだ。


死は一つの救済であり、損得で考えても死ぬことが合理的になり得る。
だが、別に死んだらゼロになるんだから……というのは、少し違うと思う。
おそらく、この現代で「死にたい」と考えてしまう人は、何かしらの精神的なもの、世間体のようなもの、自分自身の価値観に起因するものも含めて、生きているのが嫌になってしまうのだと思う。しかしそのとき、「死」というものを単純に考えず、「死に方」というものに、少しだけ考えを伸ばしてみてほしい。

「どうせ死ぬんだからどういう死に方でも同じでしょ」と言えば、「どういう生き方でも同じ」だということも言えるわけだし、「生き方を気にして死にたくなる」のなら、「死に方」というものもある程度は気にしてみるのが道理だと思うのだ。

何らかの方法で死ぬことを思いついたとき、それが、「自分の納得できる死に様なのか?」ということを考えてみて欲しい。
「死に方」に意識を伸ばすもっともメジャーな手法が、「遺書を書く」ということだろう。自分の死後に相手に届ける文章を考えることだ。とりあえず、色んな親しい人に向けて遺書を書いてみるといい。
自殺は計画的なものよりも衝動的なもののほうが数は多く、遺書を書く人は未遂に終わりやすいそうだ。遺書をちゃんと書き終えてから死ぬと決めて、書いているうちに死ぬのが面倒になるかもしれない。


しかし、今私が述べてきた「生き方」と「死に方」の対比は、致命的な欠陥を抱えている。
それは、死は瞬間であり、生きることは時間であるということだ。

「死にたい」人は、長々と絶え間なく続く時間を終わらせること。時間を終わらせるための瞬間を望んでいるかもしれないということだ。
これはやっかいな問題ではなるが、これから、「時間」というものの不思議な性質に思いを巡らしてみたい。

「時間の作用」を考えてみる

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時間の流れとは、その残酷さと同様に、様々な神秘を含んでいる。
「浮き沈み」という言葉があるように、並があるのだ。「良いときもあれば悪いときもある」という使い古された言葉も、たくさんの希望を孕んでいるように思う。特に苦しいときほど。

私は、学生時分はボクシングの選手だったが、パンチというものは、攻防の中でふいに貰ってしまうものが、一番危ない。
「カウンター」という言葉があるが、自分が殴ろうとしている情況で、意識の外から相手のパンチを貰ってしまったりすると、軽い衝撃でもすぐに倒れてしまうことがある。
逆に、どれだけハードパンチャーでも、「次にパンチが来る」ということがわかり、その心づもりをしておけば、綺麗に当っても、なんとか耐えられるものなのだ。

苦しくなったときは、とにかくここを「耐える」という意識を持つことだ。とにかく耐える。自分の身体を傷つけて終わらせてしまいたい衝動を我慢して、耐えて、耐えること。

もちろん、ボクシングのような単純なものと違って、精神的なものは厄介だ。一番オススメなのは、寝てしまうことだと思う。
個人的に、つらいときは「ぐっすり眠る」に限る、と思っている。時間を気にせず、次に目が覚めるまでできるだけ長く眠って、それから考えればいい。
現代社会において、「眠る」というのは、厄介なものに立ち向かうためのもっとも有効な解決手段だ。仮に寝過ごして、会社を無断で休んでしまったとしても、次の日に飯が食べれなくなるわけでも、誰かが自分を殺しに寝床までやってくるわけでもないのだ。

この文章を読んでいて、今「つらい」というときは、とにかくぐっすり眠ってみてから、続きを読んでもいいかもしれない。

布団にはいって目を閉じても眠れない。睡眠薬も持っていない。寝たけどつらいまま、という人は、とにかく何かをして気を紛らわす必要がある。本を読むとか、人気の海外ドラマをしてみるとか、オンラインゲームをやってみるとか、そういうことでもいいと思う。

誰かに話を聞いてもらうのも良い。
電話で「こころ」の問題の相談を聞いてくれる窓口も存在する。
「こころの健康相談統」などと検索すれば、電話番号等が見つかるので、そこに電話をかけてみるのも良いのではないか。

もし仕事があって、それをやるべきだと自分が思ってるなら、意識を停止して、その仕事をやり過ごすことだけを考えるべきだ。

とにかく、一時的にも気を紛らわせて、耐えしのぐことが大事なのだ。


それでも駄目だ、耐えきれない、という人もいるかもしれない。それなら、別のアプローチがあり得る。「自分を死に追いやる社会」について考えることだ。

なぜ自分が「死にたい」などと思わなければならないのだろうか?

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人は、その時代の価値観から逃れることはできない。江戸時代だったら楽しく暮らせていたような人、明治時代なら英雄になれたような人が、現代では就職先が見つからず鬱病になって自殺してしまうということもあり得る。
自分自信に植え付けられた価値観を客観視すること、何らかの公的なものに強い感心を寄せることで、「死にたい」という気持ちを薄めることができるかもしれない。
自分を規定している、社会の価値観、文化というものに疑問を持って、自分の頭で考えること、それが救いにつながる場合もあるかもしれない。

これは、社会の問題、あるいは日本の問題というのが、あるのではないかと思う。
「つらさ」というものは、目に見えない。そして目に見えないからこそ、様々な困難がある。認知されないから、問題は大きくなるのだ。

いまだに、様々な偏見が満ち溢れている。例えばSNSなどで、「本当に死にたい人は死にたいなんて言わない」という趣旨のっことを言う人がいて驚いた。一体どれだけ頭が悪ければこのようなことを言えるのだろうか?
「死にたい」というのはSOSのサインなのだ。うまく言語化できなくて、「構ってほしい」という意味で「死にたい」と言う人もいるだろう。それを嘲笑するとは何事か!
そのようなことをしているから、自殺という形になってはじめて、「この人はそれほどまでに辛かったのか」と気づくような社会になってしまうのだ。

精神的な「つらさ」の厄介なところは、自分がつらいのだという証拠を他人に見せることがえきないことにある。身体的な怪我はわかりやすく、人々の「思いやり」の手を借りやすい。しかしそれが精神的なものになると、たちまち「単なる気持ちの問題でしょ?」ということになってしまうのだ。
要するに、日本という社会はまだまだ野蛮なのである。

日頃から、SNSやブログやメディアの寄稿欄に、社会問題に関する疑問を投げかけるというのは、精神衛生上健全なことかもしれない。
自分の悩みや、つらさを、しっかり言語化することが救いになる人もいるのではないだろうか。しかし、言葉にして、社会の問題と結びつけるという作業は、簡単なことではない。ある種の「わかりやすさ」に飛びついてしまう人が多いことも知っている。
しかし、それで救われるのであれば、多少は極端な方向に走ってしまうのも、許容されるべきことだと私は考えている。

私自身のことについて話せば、どうして、このようにして、長い文章をネットに垂れ流すために書いているのだろうか?
別に私は善人ではなく、悩んでいる人達を救いたいみたいなことを考えているわけではない。この文章を書いているのは、自分自身のためなのだ。
自分は歳をとっていくし、例えば、「結婚」や「親の介護」などの問題に突き当たると、投げやりに人生を終わらせたいと思う気持ちが少しは湧いてくる。その不安や憂鬱は、おそらくこれから年齢を重ねるごとに大きくなっていくだろう。

私は、行政的なものやビジネスメールはともかく、このような誰かに読ませるためのものを今までまったく書いてこなかった人間だから、文章には自信がなく、またブログを更新するというのも骨が折れる作業である。しかし、自分自身の思いを言語化していくこと、社会問題について何らかの言及をしていくことが、これからの精神の戦いにとって良いものであると考えている。だから、こうやってブログを書いているのだ。
あわよくば、私の書いたものを読んで良かったと誰かに言ってもらいたいとも思っている。

「思いやり」や「常識」を持っている人ほど「死にたい」と思ってしまう現状が我慢ならない。

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私には「ある怒り」というか、ライフワークのようなテーマがあり、それは、心優しい人ほど、その心優しさによって、多く傷ついてしまうのではないか、ということだ。
無関心な人間ほど「死にたい」からは遠く、繊細で優しい人ほど、思い悩んでしまうのではないかということだ。

世の中には、人々のまっとうな優しさとか、思いやりとか、常識とされるものを守ろうとする規範意識を悪意を持って利用しているかのようなシステムが存在する。
私と共に働いていた大学の同期の盟友は、ある仕事に投げ出され、自殺したわけではないが、壊れた。それについては詳しく語らない。
しかし、その当時の私は無関心でぼんやりしていて、人への思いやりに欠けていたからこそ生き残り、盟友(あえてそう言わせてもらう)は、繊細で優しい気持ちを持っていたからこそ壊れたのだ。

私は、何もハードワークを恨んでいるわけではないし、日本企業が悪いところばかりだと思っているわけでもない。ただ、そういう種類の恨みがあるのだ。
心優しい規範を植え付けられた人こそ、その心優しさのせいで不幸を被るという、そのような皮肉に対する強烈な怒りがある。


罪の意識を知らなければ、それについて思い悩むことはない。常識や思いやりに欠けた人間は、不満を持つことはあっても悩んだり傷つけられることはないだろう。

私は、この社会で、自ら死ぬべき人間がいるとは思ってない。それでも、自分は死んだほうがいいのではないか、と考えてしまう人がいる。そして、それは、おそらく彼ら自身が獲得してきたものに拠るのだと思う。

率直な思いであるが、私自身は、あなたが「死にたい」と思っている情況に対して、何かを言う筋合いはないし、どうすることもできないと思う。
しかし、「死にたい」と言ってしまうこと自体が、「もっとしっかりしなきゃ」とか「価値のある人間になりたい」という思いから来ているとしたら、人間が持っているその手の機能、そうなっている情況に対して、何か強烈な悔しさを感じるのである。
だから、実際に死んだり思い悩み続けたりしないで欲しいと思う。ただ私自身の自身の怒りのために。

「死にたい」情況を打破するための具体的なテクニック

これはおまけみたいなものだが、「死にたい」と思ってしまう情況を、どうしても解決できないときのためのテクニカルなことを紹介していく。何かあったときは参考になる場合もあるかもしれない。
ポイントは、「こんなことすると悪いんじゃないか……」みたいなことを思わないことだ。あなたの最優先事項は、自分の心の防衛であり、そのために淡々とやるべきことをこなしていくイメージだ。それは、しっかりと睡眠をとることや、本や動画なんかを見て気を紛らわすことや、臆さず面倒くさがらず病院に行くことだ。

これからは、そういう心の防衛の役に立つことを書いていきたい。

バックレる

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「バックレ」という、バイトや仕事などを連絡無しにやめて、その後は音信を一切立つ行為がある。これは、社会人として絶対にやってはいけないと言う人がいるけど、バックレはしてもいい。東大卒で大企業に勤め、10年と少しの間「真っ当な社会人」として見られてきた私が断言する。

もちろん、辞めるときはしっかり連絡をするに越したことはないのだけれど、あなたがもう連絡を取りたくないとか、バックレたいと思ってしまう時点で、相手側の責任なのだ。
労働基準法などを平気で破るくせして、雇用者には高度な倫理観と責任感を求める企業が日本には多すぎるし、それはそのように働いてしまう人達がいることの裏返しでもある。

もしあなたが倫理的に「バックレ」はいけないことだと思っているのなら、多くの日本の企業は、それよりずっと倫理観にいけないことをしていると、私は教えたい。
むしろ、あなたがバックレることで、悪徳企業にダメージを与えて、社会が良くなっていく、くらいに考えてもいい。

もし、あなたの「死にたい」が仕事から来ていて、とても嫌な思いをしているとか、長時間働かされているとか、人間関係でプレッシャーを受けているとしたら、そのまま音信を断ってしまうというのは十分アリだ。
特に追い詰められているときなどは、携帯の電源を入れずに、好きなだけぐっすり眠って、回復してから考えるといい。
あなたを勇気づけるために、2ちゃんねるのバックラー(バックレる人のことを言う)のコピペを貼っておこう。

S級バックラー
伝説の存在。給料と称して、売場の物やレジの金を強奪して消える最強のバックラー。場合によってはブタ箱逝きであることから、 バックラーからも畏怖の対象として見られている。

A級バックラー
活力みなぎる若者の主流。トイレの便器から外れた位置にウンコをする、売場を荒らす、勤務中に姿を消すなど、職場への迷惑行為をしてバックレる漢の中の漢。世間からは概ね理解を得られぬが、その反骨精神溢れる姿は 一部からは熱狂的な支持を得ている。

B級バックラー
仕事を覚えて、職場の主力に近い立場を取得した後、消える。そのバックレ 効果は絶大であり、職場に致命的なダメージを与えることもある。忍耐力のあるバックラー、という資質が必要となり、労働時間が長くなる為、C級 バックラーと比較すると少数である。

C級バックラー
入って数日、もしくは1,2週間で消える。職場への被害は極僅かだが、 バックラー本人の貴重な時間を無駄にすることなく、ストレスも最小限で抑えられるため将来性バツグン。

ブロンズバックラー
即日消える豪の者達。わずか一日で職場を見極めなければならないため、 かなりの判断力は要求される。

ゴールドバックラー
数時間、あるいは数分で勤務中に消える。もはや幻。彼らは本当に存在 したのか?職場に、自信の存在を疑わせるほどの光速バックレ技術は黄金聖闘士に匹敵。

世の中にはこういう人達だって普通に生きてるんだよ、ということを思うだけでも、元気づけられないだろうか?

「鬱病」の診断書をもらう

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心の問題は、見えやすい形では現れてくれないのが大きな問題点だ。「診断書」という証拠は、それを見えやすい形にしてくれる。
「誰もが見てわかりやすい形にならないと問題が認知されない」というのが、日本社会の大きな悪癖の一つだろう。そのような社会では、つらさを表現したい人は死ぬしかなくなる。

幸いなことに、「鬱病」というのは社会的に認知されているから、診断書は大きな武器になる。有給消化した上で会社をやめるとか、いきなり会社をやめたいとか、そういうときには使える。
病院によって診断書をすぐに出してくれるところと出してくれないところがある。この問題について最も重要なのは、「ボロボロになるまで追い込まれないと休んじゃいけない」と自分自身で思い込んでしまわないようにすることだ。
ちょっとつらかったら、大事をとって休む、それくらいの意識が必要なのだ。診断書を武器にすることを、「ずるい気がする」とか「何か会社に悪い」と思わないようにしよう。そう思ってしまうこと自体が、すでにひとつの罠なのだ。

「会社」に追い詰められているときは、バックレてしばらく休み、鋭気を養ってから病院に行って診断書を貰ってくる。というところまでやっていい。



以上、基本的に私はバリバリ働いてきた人間なので、仕事関連はともかく、深い精神的なことや文化的なことは言えない。
だが、この文章を読んで、気が紛れるようなことがほんの少しでもあったなら幸いである。